ところが、道真が讃岐の地で不平不満に満ちた生活を送っていた時に都では政治の世界において大きなうねりが起こっていた。
一旦は臣籍に下っていた宇多天皇が光孝天皇の譲位により新天皇として即位した。天皇は大極殿で即位の儀式が終わるや藤原基経のもとに使者を遣わして勅書を送った。内容は基経の協力を要請するというものであった。基経は慣習に従い辞退の表を奉る。天皇は再び勅答を送ったのであるが、その勅答の中にあった「宜しく阿衡の任を以て卿の任となすべき」という言葉をめぐって、自己の政治的立場を有利にしようとした藤原基経と宇多天皇の関係が悪化してしまったのであった。世にいう『阿衡の紛議』という事件である。
この紛議の中、讃岐にいた道真は、学者の一人として基経に諷諫(ふうかん)の書を送り基経の行為を諫めた。この事がきっかけで紛議は解決され、結果として道真は京に呼び戻され、宇多天皇から大いなる信頼を得ることになるのである。
京に戻るや道真は蔵人頭に抜擢される。昇殿をゆるされるようになったのもこの年である。そして、今では勘解由使長官として朝廷内で相当な地位を誇っていた。また、大江氏や日野流藤原氏とともに中国の史書や詩文を専攻する紀伝道(文章道)の家柄として自ら講義をする『菅原家廊下』の総長としても多くのエリートを輩出し、世間にその存在を認められる人物になっていた。当然、息子達にも多くを期待しているのだった。
道真には多くの子どもがいた。長男の高視を筆頭に寧茂、景鑑、景行など全てが父親の期待を裏切ることなく育ってきた。その誰もが学者道真の後継者となってもおかしくない出来栄えだった。
しかし、兼茂だけはどういった訳か父親の能力を受け継ぐことなく育ってきた。いわば菅原家の落ちこぼれとして他の兄弟からは一段低い存在として扱われていたのだった。
そんな兼茂が道真にとって唯一の悩みの種であり、必然的に兼茂に対してきつくあたってしまうのだった。道真とて父親である。自分の血を分けた子どもが可愛く無いはずがない。しかし、兼茂の飄々とした、見方によっては少々抜けた顔付きを見ていると苛立ちだけが全面に出てくるのだった。
家族中から優しい言葉をかけてもらうこともなく育った兼茂にとって唯一、乳母の春澄賢子だけが兼茂の理解者であった。
今朝の道真の言葉にしても三人の兄弟を前にして均等に言ってはいるようだが、本当は兼茂一人にだけ言っていたのだった。
だから兼茂はうんざりしていた。
学問では、どのようにあがいてみても兄弟にかなわない兼茂であったが、競馬(くらべうま)・船渡(ふなくらべ){競漕}・打毬(だきゅう){毬杖を持った二組の騎馬の人々が毬杖で毬をすくい、早く毬門に毬を打ち入れた組みを勝ちとする}こぶしうち{拳でうちあう}擲倒(かえりうち){相手をうちたおす拳闘や相撲に類する}小弓(こゆみ){十丈ほど離れた的を四尺ほどの小弓で射る多くは賭け事に使われた}等の体力勝負では兄弟の誰にも絶対に引けを取ることはなかった。
しかし、兼茂の得意とするこれらの遊びは貴族の嗜みとして必要とされるものではあっても、学問で栄えている菅原家にしてみれば書や詩ならともかく、別段必要とされるものではなかった。それゆえ兼茂が人一倍それらの事に秀でているといっても評価も低く、当然その事だけにうつつをぬかしていると判断され、評判も落ちていくのだった。それが兼茂にとっては不満であった。擲倒などは年上といっても景行程度では兼茂の敵では無かった。
一年前、嫌がる景行を言葉巧みに誘い込み散々に打ち据えた時も乳母の賢子は手をたたいて喜んでくれたが、帰ってきた父は兄の景行から大げさに誇張された話を聞き、兼茂一人を長時間前に座らせて説教したのだった。それ以来兼茂は景行の卑怯な性格を許すことができずに、話をしていなかった。
兼茂の遊び相手は乳母の賢子一人になっていた。活発な兼茂にとってよき理解者の賢子ではあったが、彼女が相手では爆発しそうな力を持て余している兼茂にとって満足することはできなかった。こっそりと屋敷を抜け出ては馬に乗り野山を駆け巡り、学問でしか評価を得ることのできない菅原家での疎外感を解消していた。
勉強もせず遊び呆けている兼茂を、賢子は上手にかばい、母親の宣来子や道真に対しての言い訳を考えてくれていた。
ところが、兼茂の押さえることのできない凶暴ともいえる若さはただ馬に乗るだけでは満足感を得ることはできなくなっていた。退屈してきた兼茂は、百姓の子を集め擲倒を教えて相手をさせていた。最初は身分の違いから恐る恐る相手をしていた子ども達も、気さくな兼茂の人柄と、兼茂の死に物狂いともいえる迫力に圧倒されて、近頃では本気を出していた。
いや、本気を出さないと兼茂一人に散々な目に合わされるのだ。打ち所が悪いと怪我くらいでは済まなかった。
賢子は馬に乗ってくると言っては外出し、帰ってくると手足に打ち身の跡やすり傷をつけてくる兼茂を心配し、何をしていたのか何度も問い正してきた。しかし、いかに良き理解者の賢子であっても百姓の子らと一緒に遊んでいたなどということは到底理解することはできないであろうから、兼茂は賢子にも真実は言えなかった。
「兼茂どの、朝の支度を早めに済ませて書の練習をいたしましょう」
父を見送った兼茂が部屋に戻り、痺れた足を癒していると賢子が部屋の外から声をかけてきた。
「日が出れば、今日も遠駆けに行くぞ」
秘密を共有した者だけの会話。そんな感じのひそひそ声で兼茂は部屋の外にいる賢子に言った。
「なりませぬ」
強い口調の賢子の声が直ぐに帰ってきた。兼茂にとっては意外ともいえる賢子の態度であり、一瞬兼茂はキョトンとしてしまった。「どうして、父上はすでに参内したぞ」
「なりませぬ、今日という今日は廊下においてしっかりと学習していただきます」
厳しい顔をした賢子が部屋の中にすべるように入ってきた。朝日がうっすらと差し込んできた部屋にえび香の香りが漂った。
「兼茂どのは阿呆のように言われて悔しくはないのですか」
そう言いながら兼茂を見つめる賢子の大きな瞳に涙が光っていた。
「景行の乳母に何か言われたんだね」
兼茂の言葉で賢子の瞳からは涙が一筋流れた。
兄弟といっても仲の悪い景行と兼茂の関係はそれぞれの乳母同志の関係にまで及んでいた。
景行の乳母は父親譲りで学問に秀でた景行を何よりも自慢にし、ことある毎に兄弟を比較しては乳母である賢子に嫌味を言うのだった。その度に賢子は言い返すこともできず、兼茂の部屋に来ては泣くか愚痴をこぼすのが常であった。
「賢子が悔しい思いをするのは僕の責任だ。でも、僕はこれで十分満足しているから」
「なりません、兼茂どのにも菅原家の血が流れているのです。学問を真剣にやりさえすれば必ず兼茂どのも景行どのに劣らず道真どののような優秀な学者になれるはずです。兼茂どのがそのように立派になられ、学者として道真どの同様、帝に任じられることが私の勤めでもあります」
「学者なんて」
賢子の言葉があまりにも意外だったのでおもわず大きな声を出した。今までそんなことは考えたこともなかった。キョトンとした兼茂の態度はますます賢子を興奮させたようだった。
「それでは兼茂どのはどうなさるおつもりですか。それに、そろそろ元服のことも考えていただけなければ兼茂どののお世話をしている賢子も叱られます。妻はどの方にされますか、どの方のお嬢様の所に行かれるつもりですか、それなら和歌もできなければ話しにもなりません」
一気に話し続ける賢子に何か言おうとした兼茂だか、その言葉を遮るように、
「百姓の子と一緒に遊ぶのも今日限りにしてください。このことが道真どのに知れたら厳しいお叱りを受けます」
「えっ、知っていたのか」
今まで誰にも話さずに秘密にしていただけに、知られていないと思っていた賢子の口から突然言われると戸惑ってしまった。
「貢久に口封じをしてもあの子は私の子どもです。母親には何でも言います」
貢久というのは賢子の子で本名を春澄貢久と言った。
母親が乳母をしている関係から貢久も兼茂と一緒に学び、一緒に遊び、細々とした世話をする乳母子になっていた。兼茂が外出する時は、この貢久がいつも決まったように一緒にくっ付いてきた。しかし、高い所から飛び下りることにも怖じ気付き、結局最後には泣き出してしまうような弱々しい貢久は、兼茂の遊び相手というには物足らなかった。それなのに、勉強においては当たり前のことかもしれないが、兼茂よりも随分よく出来た。別に腹が立つわけではないが、今回のように些細なことでも全て賢子に言い付ける貢久はうっとうしい存在で、兼茂は得意の遠駆に行く時はいつも途中で貢久をまくのだった。
「それから樋洗童(ひずましわらべ)に気軽に話しかけるのもお止めください」
「どうして、一生懸命働いているじゃないか賢子だって世話になってるだろう」
「やめてください。何というはしたない」
賢子の表情が般若のように変化した。滅多に見せない表情であるが、本当に腹を立てているときの表情である。
これ以上話をしても次から次に耳の痛いことを言われるだけに違いないので、兼茂は今日一日は賢子の言うように書の練習をするしか手はないと観念した。
それにしても樋洗童がいないと大便や小便を処理する者がいなくなりみんなが困るのにどうして話をしてはいけないのか兼茂には理解できないのだった。
書は墨をするところから始まる。毎日のように百姓の子らと擲倒をしている兼茂の腕は自然と鍛えられており、賢子が驚く程太く、少年の腕とは思えない程筋肉が盛り上がっていた。そんな手で力まかせに墨をするのだから墨は直ぐに黒くなる。始めの頃は黒々とした墨の色を賢子は褒めてくれたのだが、今は褒めてはくれず、ただあきれられてしまうだけだった。
「この書は誰のものですか」
「この書は紀夏井(きのなつい)どののものです。この方は小野どのも『真書の聖』と称賛されるほどの書の名人なのです。兼茂どののように書が得意でない方には最適の書といえましょう」
ちくりと嫌味も言われた。それに説明されても兼茂にはこの書のどこがいいのかわからなかった。女々しい字が並んでいた。どうせ書くのならもっと力強い太字の書を書いてみたかった。
「もっと太い字の書はなかったのかなぁ」
心の中で思っていた事が口から出てきた。「兼茂どのもいずれは元服なされて結婚しなければなりません。そのためには和歌がうまくなければ話になりません。でもどれだけ素晴らしい和歌であったとしても綴った文字が汚ければ誰も相手にしてくれません。ですから、まずは細筆の練習をしなければなりません。太い字は細い字が上手に書けるようになってからです」
兼茂の言葉を聞いた賢子の口から、ぴしゃりと兼茂の気持ちを萎えさせる言葉が出てきた。それにしても、今日はいやに元服や結婚という言葉が賢子の口から出てくる。さては誰かに言われたのだろう。
書の練習が終わる頃、『菅家廊下』の塾生たちが菅原家の家に集まってきた。中には供を連れて来ている者もいるので一気に屋敷はにぎやかになる。
景鑑と景行は一番前に座っていた。この二人は頭の出来も同じようなもので同じ兄弟といっても兼茂とは違い、学問も出来、気が合うのかいつも二人並んで座っていた。
兼茂は、そんな自分とは違う、よく言えば優秀な二人の視野に入らないように一番後ろの席に座った。ここなら先生から目も届かないし、退屈すればいつでも抜け出せるだろうと考えたのだった。
菅原道真は最近は忙しく、ほとんど門弟の指導に当たることはなかった。その代わり息子の菅原高視が父に代わって『菅原家廊下』を支えていた。
兼茂と高視は兄弟ではあるもののほとんど顔を合わすことなく育ってきた。数年前に結婚し、今はこの屋敷に住んではいなかった。毎朝父親と入れ替わるように屋敷にやって来て、門弟達に勉強を教えるのだった。
高視は講義が終わるとそそくさと帰ってゆく。屋敷でくつろいでいることはなかった。ましてや兄弟の誰かと話をするということもなかった。兼茂は心を開いて兄である高視に何かを話したということもなかった。高視にしても出来の悪い弟に関わりたくなかったのかもしれない、高視が講義に来て兼茂に何かを教えるということはまったくといっていいほどなかった。ほとんど視線の片隅にも入らないように無視をしていた。
兼茂は音を立てないように注意して廊下からすべり降りた。少し動いただけで音を立てる古臭い廊下には閉口したが、ゆっくり、ゆっくりと体を移動させた。本人は随分と慎重にスキを伺って講義を抜け出したつもりなのだけれど、ほとんど誰も出来の悪い兼茂には注意を払ってはいなかった。或いは、ナメクジのように動く兼茂を高視は見ていたかもしれないが、関わり合いになりたくもなかっただろうし、得体の知れない兼茂の動きは見ていても気持ち悪いだけで無視をしていたのかもしれない。
廊下の下は廊下の上とはまったく別の世界が広がっていた。廊下の上に張り詰めていた緊張感はそこにはまったくと言
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